聖地巡礼の旅

pilgrimages

ホームページ / 聖地巡礼の旅/講演タイトル『古代高僧の知恵の結晶である遍路巡礼の装備』
講演タイトル『古代高僧の知恵の結晶である遍路巡礼の装備』

古代高僧の知恵の結晶である遍路巡礼の装備 智廣阿闍梨による日本愛媛大学遍路文化交流会での講演「遍路の現代人への啓示」(連載二) 2、遍路巡礼の道具と服装 下記の図は遍路巡礼の装備で、遍路に出かける人は…

2019.09.20

古代高僧の知恵の結晶である遍路巡礼の装備

智廣阿闍梨による日本愛媛大学遍路文化交流会での講演「遍路の現代人への啓示」(連載二)

2、遍路巡礼の道具と服装

下記の図は遍路巡礼の装備で、遍路に出かける人は皆このような用品が必要です。この装備もまた古代高僧大徳の叡智の結晶と言えるでしょう。なぜ皆このような装備が必要なのでしょうか。実は、これらのひとつひとつの装備には深い意味が含まれており、私たちに深い啓発を与えてくれます。

遍路行者の装備図

まずはじめは、頭にかぶる菅笠についてです。菅笠には幾つかの意味がありますが、まず一つ目は菅笠の上に書かれている「同行二人」という四つの字について説明します。「同行二人」は遍路において大変重要な概念です。この四文字は遍路の服装、道具、お守り、記念品の上に書かれています。しかし、今回はこの「同行二人」の意味はまず置いておき、先に菅笠に書かれている四句について、お話したいと思います。

「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北」という四句は中国古代の禅師が作った偈頌で、この四句の真の意味を理解できれば、全ての煩悩は消え去ることでしょう。

菅笠に書かれている言葉

「迷」と「悟」は仏教のなかで重要な二つの概念です。迷えば衆生であり、悟りを得れば仏になる、仏教を学ぶ目的は「迷いから抜け出し、悟りを得ること」となります。「迷故三界城 悟故十方空」はどういう意味でしょうか。仏教はこの世界を三界六道の輪廻と言います。なぜ人が悩むのかと言うと、この三界六道の輪廻を実在の存在と思い込んでいるからのです。先ほど言った涅槃というのは、完全に悟りを開いた状態で、一切の煩悩と苦しみをなくし、簡単に言えば「離苦得楽」の状態であり、苦しみはありえません。なぜかというと、悟りが開ければ、三界六道の輪廻の真相はただの幻覚に過ぎないと分かり、この三界六道の苦海の中から解脱することができるのです。

六道輪廻の苦しみの根源は「因惑造業、因業受苦」です。無明だからこそ業を造り、業があるからこそ苦に陥ります。ですから、この苦しみの源は無明ということになります。どのようにすればそこから解脱できるのでしょうか。この無明を破り、悟りを得てこそ、苦から解脱し、楽を得られます。ではどのように無明を破り、悟りを得るのでしょうか?答えはこの四つの言葉の中にあるのです。

この偈頌の一句目は無明の情況を書き表しています。無明だからこそ、「三界城」が生じます。「三界城」は一つの比喩で、欲界、色界、無色界を指します。六道輪廻はこの欲界、色界、無色界の3層に分かれています。無色界天は無色界に属し、色界天は色界に属し、色界天以下が欲界であります。天道の欲界天、阿修羅道、人道、畜生道、地獄道、餓鬼道、これらすべては欲界に属しています。これらが「三界城」と称されているもので、六道輪廻を一つの城として比喩しているのです。ではこのような城はどのように出来たのでしょうか。それは私たちの無明から生まれたもので、無明だからこそ、三界六道の輪廻が生じるのです。

二句目の「悟るが故に十方空」とは「悟りを開く」という境界に相応して述べたものです。「十方」は一切を表し、すべてのものが十方の中に含まれ、上であろうと、下であろうと、東南北西であろうと、東南、東北、南西、北西であろうと、とにかくすべての一切の存在と現象は十方の中にあります。私たちが悟りを開いた時に一切の現象、又は物事が実はすべて「空」であると分かり、輪廻はただ私たちの夢に過ぎないと知ります。私たちが夢を見ている時はいつも、夢の中のものは本当に存在するものだと勘違いしてしまいます。目が覚めてはじめて、実際に夢の中の宇宙、世界は存在しないと気が付くのです。これこそがこの二つの言葉の意味なのです。「迷うがゆえに三界は城なり」はちょうど私たちが夢を見て、六道輪廻のような宇宙、世界が出現し、すべて一切のあらゆる事が真実だと思われ、その中で苦しみ、楽しみを感じ、様々な現象を見ます。しかし、目が覚めて初めて夢の中のすべてが実際に存在しないと気付く故に、「悟るが故に十方空」というのです。

実は私たちは今大きな夢の中に居て、目の前に見る全世界は巨大な無明の夢なのです。多くの人々は自分たちの意識がはっきりしていて、夜寝る時だけが夢だと勘違いし、我々が毎晩寝る時小さな夢の中にいて、朝がやって来て、両目が醒めたとしても実はまた更に大きな夢の中に陥っていることを知らないのです。私たちが衆生でいる原因はこの大きな夢の中で迷っているからです、仏陀はもう既にこの大きな夢の中から目が覚めたので、「悟った者」と呼ばれました。これは「迷うが故に三界は城なり、悟るが故に十方は空なり」の意味です。

私たちが本当に悟りを開いた時、「本来東西無し、何れの処にか南北有らん」の意味が分かります。東、西、南、北は私たちが貼り付けたラベルです。なぜなら、我々はこの世界には「我」があるということに執着しているからこそ、前後左右、東南北西があるのです。もし「我」という「中心」がなければ、一体どこに東南北西、上下左右があるのでしょうか。ですから、「空」を知る時、「空」の中には、東南北西、上下左右などの一切の時間、空間は実際に存在しないと分かります。それも多くの近代科学が絶えず探索していることであり、今では、多くの科学者はこの世界が実際は幻想であり、私たちの想像するような真実ではないと認識し始めています。彼らが本当に分析し続ければ、すべてが実際は幻想であると気付くことでしょう。

それなので、この四つの言葉は実際に「迷う」と「悟り」の違いを掲示しているのです。もし私たちが迷えば、三界六道輪廻、一切の苦しみが生成し逆に、もし私たちが悟りを開き、「空」を悟れば、一切の苦しみが自然に消失します。まるで夢の中で恐怖な出来事に遭った時、目が覚めたら、恐怖な出来事は自然に消えるように、それと同じ道理です。

だから、仏法によれば、一番重要なのはよい夢を構築するのではなく、夢の中から目を覚ますことです。どんなに美しい夢であっても、「ただの夢」に過ぎません。最終的には無常で、必ず終わりがあり、その終わりの時には、何も得ることができません。夢から覚めた時、夢の中で得たものはすべて無くなっているでしょう?今多くの人々が毎日一生懸命頑張って、争って、またいわゆる成功を追い求めていますが、実はそれらは全て夢の中の成功にすぎません。ですから、この視点から言えば、大きな意義はありません。夢の中でどんなに大きな成功を遂げたとしてもどうにもならないでしょう。最後に美しい夢が破れ、やはり何も得られず、すべて「空」の中で消えてしまいます。ですから、仏法で一番有意義なことは、仏法を修行し、夢の中から目を覚ますことです。この功徳こそ真の価値があります。こうすればこそ永遠の楽を得られ、幻想的な三界輪廻の中で苦しむことがなく、また仏陀のような無上の功徳と楽しみを持つことが出来、一切の衆生を助けることもできます。それなのでこれらの言葉の意味は極めて重要なものです。

この四つの言葉は深い意味が含まれていますが、真の意味を理解することはなかなか難しいと思います。この四つの言葉の意味を真に理解するには、一冊の経本を読むことです。一体どんな本かというと、それは私達がお遍路の中で毎日唱えている経本である『般若心経』です。『般若心経』というお経の真義を理解することができれば、なぜ「迷故三界城 悟故十方空」であるかが分かるのでしょう。ですので、この菅笠にも非常に深い佛教の智慧を含まれているということです。

白衣を着る姿  撮影 蓮徳

二つ目は遍路の服である白衣です。記録によりますと、日本の伝統の中では白衣は故人の装束であり、棺桶に納められるときに着せられる衣装です。

お遍路の人々はなぜこの白衣を着るのでしょうか?これはお遍路の人々のたとえ遍路の途中で死んでも法を求めるという信仰と決心を表していると同時に遍路を通して生まれ変わる–即ち一度死に、過去の自分を捨てて、涅槃の更生を得て、新しい命を得られるという深い意味が含められています。現在の一言で表現すれば「死ぬための生き方」と言えます。「小我」を無くせる事によって、「大我」を得られます。つまり、無明な「我」を無くして、「悟りを得た」新生命を得る。これが白衣を着る事の大切な意味なのでしょう。従って、お遍路とは一体何か?それは正に迷いから悟りに至る旅でもあり、また暗闇から光明に至る旅でもあり、苦しみから幸せに至る旅とも言えるでしょう。これが私なりに理解している白装束着用の意味です。つまりお遍路を通して、自分今までの迷いと悩みを克服し、古い我に死に、悟りを得た幸せな新生命に生きるということです。

其れから、私達の手に持っている「金剛杖」です。お遍路の伝統の中では「金剛杖」が大変重要な法具であり、その上にも「同行二人」という文字が書かれています。そういうわけで先ほど菅笠に書かれているこの四文字の意味について、詳しく話さなかったのです。ここで説明したいと思います。

「同行二人」はお遍路の中の大変良い理念だと思います。私達の長い人生の旅の中で、また普段の職場と生活の中では、さまざまな困難と試練に直面したり、多くの煩悩や苦しむが生じたりするでしょう。これらの困難や苦しみや煩悩に立ち向かう際に、自分の無力さを感じ、何かより頼むものが必要だと感じるでしょう。より頼むものがあるとしたら、力を感じられ、心強くなります。伝統によりますと、お遍路の中ではこの金剛杖は弘法大師空海を象徴しています。この遍路文化をお解かれば、お遍路の旅の間、ただ一人で歩いているように見えますが、この遍路文化を理解する中でお遍路中に弘法大師がずっとあなたの傍に居られる事が分かるはずです。即ち、お遍路の旅を始めたその時から「同行二人」なのです。遍路をする人は皆一人ではなく、常に弘法大師が共に歩んでくださり、ご加持を頂いてます。お遍路の人の手に持っている金剛杖はその弘法大師の象徴なのです。

弘法大師空海像 撮影 蓮徳

「同行二人」の由来は弘法大師の発願です。当時弘法大師が修行や伝法をする過程の中で、八十八ヵ所の霊場を巡り歩き、その後人々が弘法大師の足跡を辿り歩いたことが遍路の伝統を形成したということだそうです。当時、弘法大師の発願は即ち、「誰でも遍路の旅路を歩く者は、初めから終わりまで彼が共にいて守護する」です。更に弘法大師の同伴はただ単に「遍路」の旅路だけの守護ではなく、もっと広い意味での、佛弟子が発心し仏法を学び修行を始めた時から、最後は成仏に至るまでの旅路の間ずっと大師が共にいて導いてくださるということでしょう。なぜなら「遍路」の旅路の四段階—発心、修行、菩提、涅槃—これは正に「仏法の学びの段階」を暗示しています。実際に弘法大師の発願に隠されたもう一つの意味は、私たちが修行を始めたその時から最後成仏するまでずっと大師が私たちと共にいてくださるということです。

金剛杖の最上部は弘法大師の頭部を表しているので、杖を握る際は避けましょう。杖先は大師の両足を表しているので、毎日休憩所に着き足を休めるときに皆さんは金剛杖の先も洗いますが、それは弘法大師の足を洗っていることになるのです。このような温かみのある些細なことが、弘法大師が私たちと共におられて始終励ましてくださっていることを気づかせ、察知と感謝の心を呼び覚まし、大師の恩恵を存分に感じることができるのです。

ですから私たちが毎日金剛杖を握る時、夜金剛杖を洗う時に決してそれをただの「杖」のように扱ってはいけません。弘法大師が共に遍路の道を歩んでくださり、人生の旅路を共に連れ添ってくださるということを知らなければなりません。これはとても有意義な法器といえるでしょう。誰でもこのような依り頼れるものがあれば、心は安定し、自信がつき、修行や前進する力が得られるでしょう。

撮影 慧者

またある人は「同行二人」の意味を自分の師、または人生の中で最も大切な伴侶、一番大切な人、ずっと支えてくれる人が人生の旅路に付き添ってくれていると解釈しています。当然のことながら、仏教的な視点から言うと更に深い意味が含まれています。それが何かというと、今日あなたが修行を始めるにあたって、一人ではないということ、弘法大師と歴代の継承祖師、諸菩薩があなたと共に修行の道を歩み涅槃円満の境地にたどり着くまでも共にいてくださるということです。それなので、人生の旅路でも修行の旅路でも実際はあなたは一人ではなく、これらの素晴らしい尊い方々がずっと共にいて助けてくださることで、最後には人生円満の目的地へと辿りつくことができるのです。

遍路の服装には他にも多くの意味がありますが、時間の関係でここまでにしましょう。

ずっと離れず傍にいる  撮影/蓮徳
 

講演タイトル『古代高僧の知恵の結晶である遍路巡礼の装備』

講演タイトル『古代高僧の知恵の結晶である遍路巡礼の装備』

2019-09-19

古代高僧の知恵の結晶である遍路巡礼の装備

智廣阿闍梨による日本愛媛大学遍路文化交流会での講演「遍路の現代人への啓示」(連載二)

2、遍路巡礼の道具と服装

下記の図は遍路巡礼の装備で、遍路に出かける人は皆このような用品が必要です。この装備もまた古代高僧大徳の叡智の結晶と言えるでしょう。なぜ皆このような装備が必要なのでしょうか。実は、これらのひとつひとつの装備には深い意味が含まれており、私たちに深い啓発を与えてくれます。

遍路行者の装備図

まずはじめは、頭にかぶる菅笠についてです。菅笠には幾つかの意味がありますが、まず一つ目は菅笠の上に書かれている「同行二人」という四つの字について説明します。「同行二人」は遍路において大変重要な概念です。この四文字は遍路の服装、道具、お守り、記念品の上に書かれています。しかし、今回はこの「同行二人」の意味はまず置いておき、先に菅笠に書かれている四句について、お話したいと思います。

「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北」という四句は中国古代の禅師が作った偈頌で、この四句の真の意味を理解できれば、全ての煩悩は消え去ることでしょう。

菅笠に書かれている言葉

「迷」と「悟」は仏教のなかで重要な二つの概念です。迷えば衆生であり、悟りを得れば仏になる、仏教を学ぶ目的は「迷いから抜け出し、悟りを得ること」となります。「迷故三界城 悟故十方空」はどういう意味でしょうか。仏教はこの世界を三界六道の輪廻と言います。なぜ人が悩むのかと言うと、この三界六道の輪廻を実在の存在と思い込んでいるからのです。先ほど言った涅槃というのは、完全に悟りを開いた状態で、一切の煩悩と苦しみをなくし、簡単に言えば「離苦得楽」の状態であり、苦しみはありえません。なぜかというと、悟りが開ければ、三界六道の輪廻の真相はただの幻覚に過ぎないと分かり、この三界六道の苦海の中から解脱することができるのです。

六道輪廻の苦しみの根源は「因惑造業、因業受苦」です。無明だからこそ業を造り、業があるからこそ苦に陥ります。ですから、この苦しみの源は無明ということになります。どのようにすればそこから解脱できるのでしょうか。この無明を破り、悟りを得てこそ、苦から解脱し、楽を得られます。ではどのように無明を破り、悟りを得るのでしょうか?答えはこの四つの言葉の中にあるのです。

この偈頌の一句目は無明の情況を書き表しています。無明だからこそ、「三界城」が生じます。「三界城」は一つの比喩で、欲界、色界、無色界を指します。六道輪廻はこの欲界、色界、無色界の3層に分かれています。無色界天は無色界に属し、色界天は色界に属し、色界天以下が欲界であります。天道の欲界天、阿修羅道、人道、畜生道、地獄道、餓鬼道、これらすべては欲界に属しています。これらが「三界城」と称されているもので、六道輪廻を一つの城として比喩しているのです。ではこのような城はどのように出来たのでしょうか。それは私たちの無明から生まれたもので、無明だからこそ、三界六道の輪廻が生じるのです。

二句目の「悟るが故に十方空」とは「悟りを開く」という境界に相応して述べたものです。「十方」は一切を表し、すべてのものが十方の中に含まれ、上であろうと、下であろうと、東南北西であろうと、東南、東北、南西、北西であろうと、とにかくすべての一切の存在と現象は十方の中にあります。私たちが悟りを開いた時に一切の現象、又は物事が実はすべて「空」であると分かり、輪廻はただ私たちの夢に過ぎないと知ります。私たちが夢を見ている時はいつも、夢の中のものは本当に存在するものだと勘違いしてしまいます。目が覚めてはじめて、実際に夢の中の宇宙、世界は存在しないと気が付くのです。これこそがこの二つの言葉の意味なのです。「迷うがゆえに三界は城なり」はちょうど私たちが夢を見て、六道輪廻のような宇宙、世界が出現し、すべて一切のあらゆる事が真実だと思われ、その中で苦しみ、楽しみを感じ、様々な現象を見ます。しかし、目が覚めて初めて夢の中のすべてが実際に存在しないと気付く故に、「悟るが故に十方空」というのです。

実は私たちは今大きな夢の中に居て、目の前に見る全世界は巨大な無明の夢なのです。多くの人々は自分たちの意識がはっきりしていて、夜寝る時だけが夢だと勘違いし、我々が毎晩寝る時小さな夢の中にいて、朝がやって来て、両目が醒めたとしても実はまた更に大きな夢の中に陥っていることを知らないのです。私たちが衆生でいる原因はこの大きな夢の中で迷っているからです、仏陀はもう既にこの大きな夢の中から目が覚めたので、「悟った者」と呼ばれました。これは「迷うが故に三界は城なり、悟るが故に十方は空なり」の意味です。

私たちが本当に悟りを開いた時、「本来東西無し、何れの処にか南北有らん」の意味が分かります。東、西、南、北は私たちが貼り付けたラベルです。なぜなら、我々はこの世界には「我」があるということに執着しているからこそ、前後左右、東南北西があるのです。もし「我」という「中心」がなければ、一体どこに東南北西、上下左右があるのでしょうか。ですから、「空」を知る時、「空」の中には、東南北西、上下左右などの一切の時間、空間は実際に存在しないと分かります。それも多くの近代科学が絶えず探索していることであり、今では、多くの科学者はこの世界が実際は幻想であり、私たちの想像するような真実ではないと認識し始めています。彼らが本当に分析し続ければ、すべてが実際は幻想であると気付くことでしょう。

それなので、この四つの言葉は実際に「迷う」と「悟り」の違いを掲示しているのです。もし私たちが迷えば、三界六道輪廻、一切の苦しみが生成し逆に、もし私たちが悟りを開き、「空」を悟れば、一切の苦しみが自然に消失します。まるで夢の中で恐怖な出来事に遭った時、目が覚めたら、恐怖な出来事は自然に消えるように、それと同じ道理です。

だから、仏法によれば、一番重要なのはよい夢を構築するのではなく、夢の中から目を覚ますことです。どんなに美しい夢であっても、「ただの夢」に過ぎません。最終的には無常で、必ず終わりがあり、その終わりの時には、何も得ることができません。夢から覚めた時、夢の中で得たものはすべて無くなっているでしょう?今多くの人々が毎日一生懸命頑張って、争って、またいわゆる成功を追い求めていますが、実はそれらは全て夢の中の成功にすぎません。ですから、この視点から言えば、大きな意義はありません。夢の中でどんなに大きな成功を遂げたとしてもどうにもならないでしょう。最後に美しい夢が破れ、やはり何も得られず、すべて「空」の中で消えてしまいます。ですから、仏法で一番有意義なことは、仏法を修行し、夢の中から目を覚ますことです。この功徳こそ真の価値があります。こうすればこそ永遠の楽を得られ、幻想的な三界輪廻の中で苦しむことがなく、また仏陀のような無上の功徳と楽しみを持つことが出来、一切の衆生を助けることもできます。それなのでこれらの言葉の意味は極めて重要なものです。

この四つの言葉は深い意味が含まれていますが、真の意味を理解することはなかなか難しいと思います。この四つの言葉の意味を真に理解するには、一冊の経本を読むことです。一体どんな本かというと、それは私達がお遍路の中で毎日唱えている経本である『般若心経』です。『般若心経』というお経の真義を理解することができれば、なぜ「迷故三界城 悟故十方空」であるかが分かるのでしょう。ですので、この菅笠にも非常に深い佛教の智慧を含まれているということです。

白衣を着る姿  撮影 蓮徳

二つ目は遍路の服である白衣です。記録によりますと、日本の伝統の中では白衣は故人の装束であり、棺桶に納められるときに着せられる衣装です。

お遍路の人々はなぜこの白衣を着るのでしょうか?これはお遍路の人々のたとえ遍路の途中で死んでも法を求めるという信仰と決心を表していると同時に遍路を通して生まれ変わる–即ち一度死に、過去の自分を捨てて、涅槃の更生を得て、新しい命を得られるという深い意味が含められています。現在の一言で表現すれば「死ぬための生き方」と言えます。「小我」を無くせる事によって、「大我」を得られます。つまり、無明な「我」を無くして、「悟りを得た」新生命を得る。これが白衣を着る事の大切な意味なのでしょう。従って、お遍路とは一体何か?それは正に迷いから悟りに至る旅でもあり、また暗闇から光明に至る旅でもあり、苦しみから幸せに至る旅とも言えるでしょう。これが私なりに理解している白装束着用の意味です。つまりお遍路を通して、自分今までの迷いと悩みを克服し、古い我に死に、悟りを得た幸せな新生命に生きるということです。

其れから、私達の手に持っている「金剛杖」です。お遍路の伝統の中では「金剛杖」が大変重要な法具であり、その上にも「同行二人」という文字が書かれています。そういうわけで先ほど菅笠に書かれているこの四文字の意味について、詳しく話さなかったのです。ここで説明したいと思います。

「同行二人」はお遍路の中の大変良い理念だと思います。私達の長い人生の旅の中で、また普段の職場と生活の中では、さまざまな困難と試練に直面したり、多くの煩悩や苦しむが生じたりするでしょう。これらの困難や苦しみや煩悩に立ち向かう際に、自分の無力さを感じ、何かより頼むものが必要だと感じるでしょう。より頼むものがあるとしたら、力を感じられ、心強くなります。伝統によりますと、お遍路の中ではこの金剛杖は弘法大師空海を象徴しています。この遍路文化をお解かれば、お遍路の旅の間、ただ一人で歩いているように見えますが、この遍路文化を理解する中でお遍路中に弘法大師がずっとあなたの傍に居られる事が分かるはずです。即ち、お遍路の旅を始めたその時から「同行二人」なのです。遍路をする人は皆一人ではなく、常に弘法大師が共に歩んでくださり、ご加持を頂いてます。お遍路の人の手に持っている金剛杖はその弘法大師の象徴なのです。

弘法大師空海像 撮影 蓮徳

「同行二人」の由来は弘法大師の発願です。当時弘法大師が修行や伝法をする過程の中で、八十八ヵ所の霊場を巡り歩き、その後人々が弘法大師の足跡を辿り歩いたことが遍路の伝統を形成したということだそうです。当時、弘法大師の発願は即ち、「誰でも遍路の旅路を歩く者は、初めから終わりまで彼が共にいて守護する」です。更に弘法大師の同伴はただ単に「遍路」の旅路だけの守護ではなく、もっと広い意味での、佛弟子が発心し仏法を学び修行を始めた時から、最後は成仏に至るまでの旅路の間ずっと大師が共にいて導いてくださるということでしょう。なぜなら「遍路」の旅路の四段階—発心、修行、菩提、涅槃—これは正に「仏法の学びの段階」を暗示しています。実際に弘法大師の発願に隠されたもう一つの意味は、私たちが修行を始めたその時から最後成仏するまでずっと大師が私たちと共にいてくださるということです。

金剛杖の最上部は弘法大師の頭部を表しているので、杖を握る際は避けましょう。杖先は大師の両足を表しているので、毎日休憩所に着き足を休めるときに皆さんは金剛杖の先も洗いますが、それは弘法大師の足を洗っていることになるのです。このような温かみのある些細なことが、弘法大師が私たちと共におられて始終励ましてくださっていることを気づかせ、察知と感謝の心を呼び覚まし、大師の恩恵を存分に感じることができるのです。

ですから私たちが毎日金剛杖を握る時、夜金剛杖を洗う時に決してそれをただの「杖」のように扱ってはいけません。弘法大師が共に遍路の道を歩んでくださり、人生の旅路を共に連れ添ってくださるということを知らなければなりません。これはとても有意義な法器といえるでしょう。誰でもこのような依り頼れるものがあれば、心は安定し、自信がつき、修行や前進する力が得られるでしょう。

撮影 慧者

またある人は「同行二人」の意味を自分の師、または人生の中で最も大切な伴侶、一番大切な人、ずっと支えてくれる人が人生の旅路に付き添ってくれていると解釈しています。当然のことながら、仏教的な視点から言うと更に深い意味が含まれています。それが何かというと、今日あなたが修行を始めるにあたって、一人ではないということ、弘法大師と歴代の継承祖師、諸菩薩があなたと共に修行の道を歩み涅槃円満の境地にたどり着くまでも共にいてくださるということです。それなので、人生の旅路でも修行の旅路でも実際はあなたは一人ではなく、これらの素晴らしい尊い方々がずっと共にいて助けてくださることで、最後には人生円満の目的地へと辿りつくことができるのです。

遍路の服装には他にも多くの意味がありますが、時間の関係でここまでにしましょう。

ずっと離れず傍にいる  撮影/蓮徳